血管探索記

腫瘍や血管の病気のこと、日々に出会ったものから連想する科学、旅行記、コラムなどを記します。

駆け出しのころ

20年前の夏、27歳で医師3年目の僕は、大学院博士課程の一年生に在籍していた。

 

この夏は記録的な猛暑(1994年猛暑)に見舞われ、東京でも39℃を超える最高気温が観測されていた。大学入学以来、扇風機で過ごしていた僕も、医師になって給料をもらえる身分になったのだからと、この暑さにかこつけて、とうとうエアコンというものを買った。6畳一間のアパートは瞬く間にオアシスとなり、僕はすっかり気を良くして英会話学校やスイミングスクールにまで通い始めた。


大学院生とは名ばかりのアルバイト生活で時間は余っていた。IVR(カテーテル治療)にしか興味を示さない僕に、ほぼ画像診断一辺倒の医局からは、それに合わせた研究テーマが与えられることは無かった。そうかといって自分でアイデアを思いつけるほどの経験もない僕の考えることと言えば、(行けるかどうかも解らない)招来の留学に備えて、資金と語学力と体力を蓄えることくらいだった。

 

今、何か不測の事態が起こると直ぐに不安が頭をもたげてくる。心に暗雲が立ちこめる。しかし、20年前の僕に、そんなことは微塵もなかった。先行き不透明なのは解っていたが、どうにでもなると信じて疑わなかったのだ。新しいエアコンから流れてくる涼風、イーオンで購入した教科書から立ちこめるインクの臭い、そしてプールでもらってくるカルキの臭いが僕を酔わせる真夏のアイテムだった。

 
ちょっと退屈したら、カエルの大合唱と満天の星空を見に、筑波山の麓辺りまでドライブして来れば十分だった。あの頃乗っていた車は、今はもう廃盤だが、ブルーのいすゞジェミニだった。ガソリンスタンドでアルバイトをして軽油の安さを知っていたから、自分の車もディーゼルだった。この車で日本中を走りまわり、特に冬、スキーではみんなを乗せて大活躍した。

 

この年1994年は、関西国際空港が開港し、マジソン群の橋がベストセラーとなり、ドラマでは「君といた夏」がヒットしていた。そうしたものがトリガーとなって、僕の心にはあの暑い夏がよみがえる。思えば、大学院こそ中退したが、学位は取れた、留学も果たせた。不安に思うことはないのかもしれない。それよりも強く信じることの方が大切なのだ。若さはそれを自然にこなすが、20年後の今は努力が要る。

 

だが、こう思うことにする。「あの時の自分と、今の自分は、同じ自分なのだ。」

 

 

Hello, my friend