血管探索記

腫瘍や血管の病気のこと、日々に出会ったものから連想する科学、旅行記、コラムなどを記します。

生きねば

僕が小学生の頃、千葉県では成田空港開港に反対する三里塚闘争が激化していた。実家の近くで、燃料輸送用パイプライン工事の説明会が開かれた時、左翼活動家が大集合したのを覚えている。僕が通学していた千葉大学西千葉キャンパスにも、過激さの差こそあれ、多数の「立て看(立て看板)」が掲げられ、政治的スローガンを発信し続けていた。

僕らはそんな環境の中で、普通にランドセルを背負い、バッタを捕ったり、どんぐりを拾ったり、セクトのお兄さん達と紙飛行機を飛ばしたりしていた。彼らは、僕らと遊ぶとき、心から楽しそうにしていたし、本当に普通のお兄さん達だった。

 外の看板さえなければ。

 

三里塚闘争では、左翼過激派の「テロ、ゲリラ」により、民間人等6人、警察官4人が殺害された。同時期に発生した、過激派のテロとしては、昭和49年8月の「三菱重工ビル爆破事件」があり、通行人ら8人が死亡、380人が負傷する大惨事となった。また、昭和50年9月には、横須賀市内で製造中の爆弾が誤爆し、アパート1棟が全壊、活動家3人と巻き添えの市民2人が死亡する「横須賀市緑荘爆発事件」もあった。 

大学生の時、欧州放浪中に偶然遭遇したルーマニア難民の大移動では、マシンガンを持った警察隊に包囲され、ルーマニア人が振りかざす緑のパスポートに紛れて、必死に赤いパスポートを振った。

ドイツで勤務していた時代には、移動中の地方空港で何度もテロリストの疑いをかけられた。単に外国人が田舎にいるのはおかしいというだけの理由で。中には、僕のノートPCからプラスチック爆弾の痕跡を探そうとした検査官さえいた。

 

僕は、自分が普通だと思うし、平和に暮らしていると思う。いろいろ不満を持ちながらも不幸とまでは言えないと考えている。それでも過去を振り返れば、危険とは「普通に」隣り合わせだった。

普通とはなんだろうか。平和とはなんだろうか。幸福とはなんだろうか。
なんでもない日常にこそ、それらが宿っている。だが、一歩外に踏み出せば、何が起こるかなんて誰にもわからない。それでも僕らは、最期まで一生懸命でいるしかない。 

僕にとってそれは、小学生時代に遊んだ活動家との邂逅や、欧州で目の当たりにした時代の渦や、「外国人」として差別された経験や、そういうものを心に刻んだまま冷静に歩んでいくことに他ならない。

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