血管探索記

腫瘍や血管の病気のこと、日々に出会ったものから連想する科学、旅行記、コラムなどを記します。

どこついだ?桜と杉菜

今日、近くの小学校に満開の桜を見に行った。その帰り道、近くの原っぱで土筆(ツクシ)が群生しているのを見つけた。ずっと忘れていたけれど、ツクシで思い出したことがある。

 

僕がまだ小学校にあがる前、父方の祖父が亡くなった。5月のことだった。人の死というものを初めて経験した僕は、言いようもない恐怖を感じた。「僕もいつかあんな風になってしまうの?おばあちゃんもあんな風になってしまうの?」爽やかな青空の下にもかかわらず、葬儀の時、何度もそんな質問をして周囲を困らせた。自分の番が来るのはまだ先だと解っていたが、とても慕っていた祖母が亡くなることへの恐ろしさだけはたとえようもなかった。

 

そんな時、年上の従兄弟達が僕をなぐさめようと、面白い遊びを教えてくれた。それは「どこついだ?」という名前である。5月になるとそこら中に生えてくるスギナを使うのだ。スギナには節がある。そのどこかをひっこ抜き、相手に解らないようにまたつないで(ついで)、「どこついだ?」と言いながら見せる。つないだところが相手に解ってしまったら、出題者の負けである。僕はこの遊びに夢中になり、死について考えることを忘れた。

 

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この時、「ツクシ誰の子スギナの子」という歌詞の童謡を習ったのも覚えている。でも、実はツクシはスギナの子ではない。植物としての名前は「スギナ」であり、ツクシはその胞子茎である。スギナは栄養茎と呼ばれ、光合成をする。両者は根でつながっており、それこそ「どこついだ?」という訳だ。

 

その後、僕は死の恐怖を克服出来たとは言えないが、職業柄、死は常にそこにあり、自分にとっての死については、さしたる考えもなしに生きている。怖くなったら、「どこついだ?」で遊ぶしかないが、子供の頃のように、遊んでくれる相手はいるだろうか?

 

僕が慕って止まなかった祖母は、僕がその死を十分に乗り越えられるようになるまで長生きしてくれた後、97歳で他界した。