高校の修学旅行から帰った後、国語の授業で俳句を詠んだ。
「節冴えて たけとりの夢 はるかなり」(嵯峨野竹林にて)
これは自分の作品だが、同じ学年の誰かがこう詠んだのも憶えている。
秀作だと思った。
「石庭や 小石のごとき 永きとき」(龍安寺石庭にて)
石庭に敷き詰められた、枯山水の小石一粒一粒は数え切れない程無数にある。それを、過去から未来へと絶え間なく、永遠に流れる一瞬一瞬の時間に喩えているのだ。時を忘れて庭園の有様を見つめる詠み人の心が伝わってくる。
いま思えば、龍安寺は臨済宗、すなわち禅宗の寺である。瞑想の根底にある、「瞬間、瞬間を見据える」という論理にまで、思いを致しての作品だったのだろう。
時間を超えて心に残っているのも不思議ではない。
俳句とは、文学における写真ともいわれる。ある瞬間の光景を言葉で描き止めたものだからだ。対象を詳細に観察しなければ、後の世でそれを読む人の心に同じ光景を呼び覚ますことは出来ない。また、絵を描くということも、対象を観察することそのものだ、と言われる。細部を見つめきれなければ、精密な描写はできない。
それらと同じように、生きるということは、自分を観察することそのものだ、と禅宗の瞑想は教える。一瞬一瞬を見つめきれなければ、心は集中せず、意識は過去と未来をさまようようになる。
自分が自分でなくなる。
残念ながら、自分は絵を描くのが上手くない。自分の意識を今に集中することも上手くない。「ただ見つめているだけで、たくさんのことを観察できる」と述べた哲学者がいる。
これまでの生活で、急ぎすぎた自分の心を「今ここ」に集中させ、それを自分で観察すること、それが、現在自分に課している課題である。雨粒を眺めるように、次々とわき出す心の粒子一つ一つを、つぶさに見たい。
明鏡止水の心境はまだ遠いところにある。