サイジング(メジャーメント)
大動脈瘤をステントグラフトで治療するためには、完全に瘤と血流を遮断することが必要です。そのためには、瘤の入り口(心臓側)と出口(末梢側)に、少しずつ余裕を持たせてグラフトを置かなければなりません。これをシーリングゾーンといいます。そうしないと血流がグラフトの隙間から瘤内へ流れ込んでしまい、治療したことにならないからです。これを「エンドリーク(内部漏洩)」と呼びます。
ところが、エンドリークを恐れるあまり、瘤から上下に出すグラフトを長くしすぎると、今度は塞いではいけない大切な枝、主に腎動脈と内腸骨動脈(骨盤内臓器を養う血管)を塞いでしまうことになりかねません。あるいは太さが合わずに、グラフトが血管壁から浮いてしまったりすることになります。
こうしたことは、術中に考えながらやっていたのでは対応出来るはずがなく、事前に撮影したCTの画像から、遅くとも手技前日までには、三次元構築した画像を使って、どの組み合わせでステントグラフトをどう入れるか、全て周到に計画するのです。これを、サイジングと呼んでいます。
もちろん、ぴったりしたサイズのステントグラフトを考えておいても、実際に手術が始まると、その場の変化(例えばCTの画像から考えていたよりもやや形が変化した時など)に応じて、サイズを変えなくてはならないことも起こり得ます。そうしたことまで予測して、グラフトはやや多めの種類を準備しておくのが普通なのです。
サイジングは大動脈ステントグラフト治療における基本中の基本、つまり、いろはのい、ということになりますね。
プロバンスの結婚式 最終回
翌日、僕の宿泊するホテルに集合した5人は海へと出かけた。せっかく地中海まで来たのだから海水浴をしなければ。
ホテルのプライベートビーチへ行き、夕方まで巨大な砂の楼閣を作り、泳ぎ、そして昨夜のことを思い出しながら青空を見上げた。海の水はまだ冷たかったが、濁りなく澄んだ水と自由に泳ぐ魚たちにみとれていたら、そんなことはあまり気にならなかった。
画像引用『フリー写真素材ぱくたそ』https://www.pakutaso.com
ふと目を上げると、サーファーがサーフボードと一緒に空を飛んでいる。僕は見たことがなかったので、ものすごくびっくりしたが、ほかの仲間は驚かない。これはカイトボードというスポーツで、もとはヨットの救助用に開発され、1998年頃欧米において競技としての地位を確立した。日本には1999年に初めて導入されたというのだから、同年からドイツに来てしまった僕が知るはずはなかった。
海水浴の後は別れが待っていた。
皆、欧州各地に帰っていく。
しかし、中身の濃い時間を共に過ごしたからか、さほど寂しくはなかった。むしろ次の出会いが楽しみだと思えたほどである。
ドイツ語学校で邂逅した5人の絆は、この南仏プロバンスで過ごした時間によってさらに強いものとなった。僕にとって、ここで見聞きしたことはかけがえのない思い出であり、人生の中でひときわ明るく輝いている。
プロバンスの結婚式⑤
プロバンスの結婚式はいよいよ佳境に入った。そこは瀟洒なレストラン。手入れの行き届いた南国情緒あふれる植物が、駐車場からアプローチへと導いてくれた。会場はドイツ語を話すグループとフランス語を話すグループに分けられたが、どちらにも所属する人も、僕らの親友を含めて幾人もいた。
ヨーロッパは言語のるつぼである。僕はいつもそこで暮らす人々を羨ましく思い、そこで生活することを夢見ていたから、ドイツ語グループに入れてもらえたことを、とても幸せに思った。
結婚披露パーティは堅苦しくなく、スピーチなども最小限で、参加者の会話をメインとして和やかに進んだ。とても素晴らしかったのは、フランス料理のフルコースである。さすがにメニューの詳細は忘れてしまったが、前菜から魚、肉料理まで、それぞれ二品目以上はあり、その度にシャンパンやワインがかわっていった。もちろんグラスごとである。ワインには産地に適したワイングラスという物がある。それを省略することなど、絶対に無いのだ。
会話を楽しんでいるとあっという間に時間は過ぎる。気づけば午前零時を回っていた。ところが、そこからがパーティの本番であった。
まずデザートワゴンが登場し、当時流行していた葉巻(シガー)も載せられていた。新郎の友人がプロ顔負けの手品を披露したり、新婦の友人がコーラスをしたり。そして夜は更けていった。
もう明け方という時間になった頃、参加者一同、本当に力を使い果たした様子で三々五々家路についた。僕ら仲良し5人組は、皆と別れを惜しみ、最後まで残った。そして相談したのは、明日、どうやって遊ぼうかという話しである。翌日、いやもうその日になっていたが、お昼に、僕が泊まっている海辺のホテルに集合ということになった。
プロバンスの結婚式は無事終わったが、僕らの夏は、まだもう少し続いた。